QUEEN。
音楽に疎い人も名前くらいは聞いたことがあるだろう。
もし名前を知らなかったとしても聴けば「ああ!!」となったりもしかしたら人によっては誰が歌ったか知らないまま口ずさんだりしているかもしれないくらいに有名な楽曲をいくつも手がけたあの伝説のロックバンド、QUEEN。
いつも日常のどこかにいる、そう言っても差し支えないくらいに存在感の大きいバンドである。
そのQUEENを題材に制作された映画がある。
それがこのボヘミアン・ラプソディだ。
これがまたとんでもない大傑作なのである。
QUEENを知らない人にこそ観てほしい、知って欲しいと思える映画だ。
実際映画は大ヒットを記録しその影響から多くの若い世代がQUEENに深く触れるきっかけとなったわけだがそれもこの映画の凄さといったところだろう。
既知未知関わらず観た者の心を惹きつけ離さない求心力をこの映画は持っている。
そこにあるのは単なるQUEENとフレディの歴史ではない。
彼らの物語だ。
ドキュメンタリーではない
本作はQUEENを題材としつつ、その中でもフレディ・マーキュリーの波瀾万丈な人生に焦点を当てた作品となっている。
ただしドキュメンタリーではないし再現VTRのようなものでもない。
フレディ・マーキュリーという男を題材とした「芸術作品」なのである。
というのもこの映画、かなり脚色されている部分があり史実には存在しない人物、無かった出来事などが追加されたり時系列の入れ替えがあったりと正確性に欠ける部分が多いのだ。
ボヘミアン・ラプソディをラジオで流すことに猛反対したレイ・フォスターなる人物は実在しないし(モデルとなった人物はいるが劇中とはだいぶ印象が違う模様)、フレディのソロ活動開始付近にバンドが解散したということもないし映画の山場でもあるライブ・エイドがQUEENの久しぶりのライブだなんてこともない。
フレディのエイズが発覚するのも映画本編後のことだしと他にも大きいのから細かいのまでたくさんあるが実際に起きた出来事や架空のエピソードを混ぜてこの映画は構成されている。
ではQUEENを描いたものとしてダメな映画なのかというと全然そんなことはない。
むしろズルいくらいに映画として素晴らしい。
フレディ・マーキュリーという人物の生涯、人間性、センス、それらフレディが内包した魅力にフォーカスを当てつつ行き着く物語のピークを伝説のライブ・エイドに設定、そこへ突き進むハイテンポなシナリオ、クライマックスを盛り上げるための数々の仕込み、それらは史実とは異なる歴史だったのかもしれないが、一本の映画として非常に完成度の高いものとなっている。
フレディという人物の魅力を引き立て、人々を惹きつけるに足る素晴らしい物語だ。
それはフレディという人間の弱さ、素晴らしさを如何にして誤解なく伝え人々の心に残すかを何年にも渡る試行錯誤のもと作られた一本であり、これを生み出すために行われた時系列の入れ替えやエピソードの脚色などはフレディのレガシーを守り彼がどれほど卓越した音楽家であったかを伝えたいというブライアン・メイ、ロジャー・テイラーらの目的の前には瑣末なものと言えるだろう。
例えばクライマックスに待ち受けるライブ・エイドではこの虚実入り混じったシナリオがここぞとばかりに活きている。
ボラプラジオ騒動、バンドの崩壊、ライブ・エイド出場を巡るゴタゴタ、フレディの病の告白などここに至るまでに描かれた真実も嘘もひっくるめた全てがここに結実するのだがこれが本当にここまで描かれた全てへのアンサーとして美しい。
実際の映像からは確認できないブライアンらバンドメンバーや観客、ステージ袖のメアリーやスタッフらの表情の補完も、自身の死を覚悟した男が魂を込めて観客にメッセージを届けているかのような選曲も、このライブを引き立てるための全てが本当に起きたことだったんじゃないか?と思わせるほどの物語性を秘めた、それでいて実際のライブを忠実に再現した奇跡のようなライブシーンだ。
ただ事実を列挙したりドキュメンタリー作品にしただけではこの映像が生まれることはなかっただろう。
嘘も真実も何もかもひっくるめ、このフィルムのために行われた全てがあってこそのボヘミアン・ラプソディという傑作映画なのだ。
脚色を批判する声も多くあったがここまで美しいものを見せてくれたのだから僕としては文句なんて一つもない。
むしろかなり難しい仕事を見事完遂したなと感嘆するほかない。
そして本作で行われた脚色には思うに監修したブライアンとロジャーの個人的な後悔や願望もあるんじゃないかと思う。
例えばフレディがライブ・エイド前の練習でバンドメンバーにエイズを打ち明ける名場面があるがこれも史実的にはライヴエイド前には起きていないイベントであり実際にエイズが判明したのはライヴエイド後、それもメンバーにはギリギリまで打ち明けることができなかったという。
だが本来はこの時点では起き得なかった「嘘」が挟まることで本作で描かれたバンドという家族との絆の強さがより引き立てられグッと物語の締まりが良くなる。
さらに言えば、ここまで積み上げたフレディ・マーキュリーという一人のパフォーマーが極みに到達する瞬間でもあり、悲しく切ないだけではなく一人の男が自分の人生に答えを出すという映画のワンシーンとして滅茶苦茶熱くなれる場面でもあるのだ。
だが果たしてそのような作劇的な理由だけだったと言えるだろうか。
確かに多くの脚色はドラマと登場人物を輝かせるのに最高の働きをしたと思う。
物語をよりドラマチックに仕上げるため、フレディという人物の魅力を伝えるため、もちろん主たる目的はそこにあるのだろうがどこかに彼らの後悔と願望があるんじゃないだろうか。
「もっと早く打ち明けてくれていたら」「エイズがもっと早く発覚していたなら」涙ながらにフレディを抱きしめるメンバーの姿に彼らの個人的な過去への願いが詰まっているように見えてしまうのである。
本作の脚色は確かに機能的であり素晴らしい働きをしている。
だがそこにはきっとそれだでではないのだろう、という個人的な願いを僕自身抱いてしまわずにはいられない。
とにかく素晴らしい「嘘」がそこにはあった。
本人?
ドキュメンタリーではないので当然本人ではなく俳優陣がQUEENのメンバーからメアリー、ポールなど主要人物を演じるわけでそこに違和感が生じないか不安になるところである。
しかし実際には違和感がほとんど無く彼らの真実の物語を見ているような錯覚まで覚えてしまったほど。
メイクや衣装はもちろんのこと、演奏をブライアンとロジャー自ら手解きするなど当時の彼らを現代に降り立たせるための細かいこだわりが画面いっぱいに敷き詰められている。
特にブライアン・メイなんか本人が若返りの秘薬か何かを使って演じていたんじゃないかと見紛うほどである。(本当に引くほど似てる)
実際のところ本物の映像や写真と見比べてみるとフレディなんかは「あれ?結構違うな?」と感じるのだが何故か映画本編を見ている時にはその違和感がすっぽりと抜け落ちてまるでフレディ本人であるかのように没入できる。
極力本人に近づけようとしたメイクや衣装、舞台や空気感などの相乗効果もあるだろうが何より演じたラミ・マレック本人の努力によるところが大きいだろう。
QUEEN関係の映像はライブから日本人が撮ったホームビデオに至るまで目を通しフレディ・マーキュリーという人間の思考を彼なりに考察し、ライヴエイドの撮影ではフレディのパフォーマンス一つ一つにどんな考えや想いがあったかをムーブメント・コーチの指導の下完コピするなど並々ならぬ努力によりラミ・マレックはフレディ・マーキュリーとなった。
特に夜に一人孤独に苦しむフレディの姿なんかは本当にそうだったに違いないと感じさせるほどである。
見た目は確かに本人と見比べてしまうと違いがくっきりと見える。
だが見ている間は気にならない。
本当に不思議なことで映画を観ている間は本人であるかのように思えるのだ。
それはもしかしたらフレディの魂をラミ・マレックが再現して見せたからなのかもしれない。
奇妙で面白いことだが、だからこそ史実には無かった嘘の部分に真実味を感じるのかもしれない。
そしてそんな登場人物たちの中でも特に触れておきたい男が一人いる。
劇中に登場する一つ一つのエピソードやキャラクターの濃さからどれが本当で嘘なのかわからなくなって困惑しそうになる本作だが「いやこれは流石に物語を盛り上げるために作られた架空の人物だろう。これはわかるよハハッ」と思わせてマジのガチで実在したフィクションみたいな男が出てくる。
ポール・プレンター。
フレディのマネージャーであり愛人でありとフレディと公私を共にする深い関係だった男だ。
何人もいる中でなんでこいつに注目するんだよと思うかもしれないがあまりにもフィクションの権化みたいな存在すぎて触れずにはいられなかっただけである。
これがもう悪い男で、現在ではもう亡くなられているにも関わらず死人に鞭を打つような割りかし容赦のない人物描写を本作では徹底して為されておりブライアンとロジャーからかなり嫌われていたんだろうなということを察してしまう程。
演じたアレン・リーチがポールについて情報を得ようと関係者に話を聞こうとしてもなかなかみんな話したがらなかった、なんてエピソードからもその嫌われっぷりの片鱗が窺える。
フレディの派手な交友関係、薬物、病気とフレディについてまわる暗いエピソードの根っこに深く関わる人物としてポールが強調して描かれており、ある意味では映画を大きく盛り上げた立役者の一人と言える。
フレディとバンドメンバーを遠ざけたりフレディの私生活を暴露し大金をせしめたりとやっていることが小悪党すぎて流石にこんな奴はいなかっただろ映画を盛り上げるために作った架空人物だろと思わせておいてしっかり実在したという嘘みたいな本当のお話の体現者ともいうべきポール・プレンター。
彼の存在もまたフレディのドラマに必要不可欠な存在でありこの映画のクライマックスを最高のピークへと辿り着かせてくれた今作における見どころの一つとして絶対に外せない存在だろう。
「こんな作り話の中に湧いてきそうな男がいたのか…」とフレディとは違う方向で驚愕させられるフックの強い人物だと思う。
あまり良くない意味で。
まあ後世から振り返れば面白い存在ではあるだろう。
当事者達にとってはたまったものでは無かっただろうが。
全てを虜に
この映画の凄いところは最初の方でも語ったようにQUEENを知らない人間の心にも刺さりうる可能性が秘められているというところだ。
この映画はフレディ・マーキュリーの死後30年近い時を経て誕生したものであり当然知識や記憶が薄い人もいる。
そんな世間的に熱の低い時期、環境下でありながら、中高年から20代まで幅広い世代からリピーターが続出するまでの大ヒットを生んだ。
それはかつてのファンの間だけでは為し得ない偉業でありQUEENに、フレディにそれだけ多くの人間を虜にする魅力があるということでもある。
元々のファンからすればそんなことは当たり前なのだろうが、そもそも別にファンじゃない人も多くいたわけで、そういう人たちの興味を引いたり夢中にさせたりしたであろう事実はただただ「凄い」のだ。
QUEENを知らない人が見れば彼らのことをより深く知りたくなるだろう。
ライブ映像を漁るだろう。
楽曲を聴きまくるだろう。
QUEENについてその背景や歴史を調べまくる人もいるかもしれない。
今まで世代じゃない年齢層や音楽にそこまで触れてない人にとって「なんか知らんけど有名なバンド」くらいだったQUEENに物語という奥行を与えその魂を掴み離さないほどの握力がある映画だと思う。
嘘のような本当、本当のようで嘘、あらゆるものが入り混じり一個の作品が生まれかつてのファンや新しい世代までをも虜にした。
それが本作ボヘミアン・ラプソディであり、遠い時代に生まれた真実と虚構の芸術なのである。